まずは「自己犠牲」、から始まる。
自己犠牲によって物事が始まる、という感覚をどれほどの人が共感してくれるだろうか。
まず何かを始めたいなら「自己犠牲」からは避けて通れない、というのが私の考え。
何かを始めるときは自己犠牲を受け入れなくてはいけない。可愛く愛おしい、自らの体と心にムチを打つ。
特に、スタートを切る最初の段階の「自己犠牲」をどこまで深く掘れるかによって後々の結果に大きく影響してくる。
はじめの一歩をどこまで自分に負荷をかけることができるか、スタート時点で勝負は決まっているような気さえする。
ただ、自己犠牲をすんなりと受け入れるのは非常に難しい。だって、ツラいしキツい。痛いし怖いし恥ずかしい。決して楽なもんではない。
一歩間違えれば、自己犠牲をしたがために身と心を潰してしまう危険もある。そして再起不能となり、一生戻って来れなくなることも。
だからこそ、できれば痛みを伴わない、「楽な方法を選ぼうよ」、と自分の本能がいざなう。
「自己犠牲」は、誰しもができれば避けたいと感じるものだ。
今回は、そんな特徴を持つ「自己犠牲」について私の意見を記す。
「自己犠牲」から始める意識
- 何か新しいことを始めたい
- 多くの人に協力してもらいたい
- 支援してほしい
と思うことがあるとする。仕事でもプライベートでも場は問わない。
この場合、まず意識すべきは「自己犠牲」を受け入れること、である。
ここでいう「自己犠牲」とは、大勢がやりたがらないこと、避けること、困難なこと、大変なことを自ら率先して動きやり遂げること、と定義しよう。
他者の苦悩をすべて回収して受け入れるイメージだ。
この自己犠牲の中では
- 楽に始めよう
- キレイにこなそう
- 失敗は極力避けよう
といった考えは完全排除しなければいけない。まずはとことん「自己犠牲」を受け入れるのである。
ツラいことも、キツいことも、痛いことも、怖いことも、恥ずかしいこともすべて。とにかく最初は、これらのツラいことをすべて受け入れる。
他者に苦しみを転嫁するのではなく、自分自身で苦しみを負う方向に飛び込むことからすべてが始まる。
周りが止めに入る「2回目」が目安
では、その「自己犠牲」はどの程度深く掘ればいいのか。
私は、「周りが止めに入る」頃合いをひとつの目安としている。周りが止めに入る「2回目」がひとつの基準である。
周りが、『そろそろ手伝うよ』と言ってきた「1回目」。ここではまだ、自己犠牲をやめない。さらに加速して「自己犠牲」を掘り続けていく。パフォーマンス的要素が入ってくるかもしれないが、それでもいい。「1回目」でやめるのはまだ早い。
その次。「1回目」の止めを入れてきた人が呆れるタイミング。
「2回目」の『もういいんじゃない』『ここまでやればいいでしょ』が掘り終わりを考え始める目安。ここまできて、ようやく「自己犠牲」の終わりを考え始める。
すべて「自己犠牲」精神だと、もたない【3つの防御策】
ただ、「自己犠牲」にはリスクもある。それが、過度の自己犠牲によって自らの身と心を滅ぼすこと。
何でもかんでも「自己犠牲」をやればいい、と単純思考「来る者拒まず」精神では身がもたない。一歩間違えると、再起不能になる危険もある。
だからこそ、致命傷を負わないため防御策を知っておくことが必要だ。私は次の3つを意識する。
- 「自己犠牲」のタイミングを的確に判断
- 止めに入る人をそばに置く
- 「自己犠牲」はもろ刃の剣
1)「自己犠牲」のタイミングを的確に判断
「自己犠牲」をすべて受け入れてはダメだ。受け入れるタイミングを的確に判断する必要がある。
最適なタイミングは時と場合によるが、私は「最初」を意識している。何かを始めたり協力を求めたりする「初期」だ。
その「初期」に、まずは自分が、手を動かし汗をかく。他人がやりたくないことを率先してやり抜く。この意識でいる。
ただ「初期」の自己犠牲が終われば、自己犠牲を引きずり続けない。手ごろな「イエス」マンにならないよう注意を払っている。手ごろなイエスマンのレッテルが貼られると、いつなんどきも「自己犠牲」を他者から求められるようになるからだ。
「自己犠牲」は自ら意志を持ってやるもので、他人から促されてやるものではない。
2)止めに入る人をそばに置く
「自己犠牲」のタイミングだと判断したら、とことん自分を自分で潰しにかかる。ブレーキは持たない感覚。アクセルのみを踏み続ける。それくらいの意気込みで自己犠牲を掘りまくる。
ただこのままだと、ブレーキがないから止まれない。
だからこそ、止めに入ってくれる人をそばに置くようにしている。自分のことを最大限知ってくれている人をストッパーとしてお願いしておく。
ストッパーは誰でもいい。
親、兄弟、友達、同期、後輩、彼氏彼女。
自分のことをよく知ってくれている人に止めてもらえるようこそっと促す。
3)「自己犠牲」はもろ刃の剣
「自己犠牲」は他人の顔色を伺ってやるものではない。他者の苦悩をすべて回収して受け入れるイメージといえど、自己犠牲を受け入れやり遂げている過程は、すべて自分のことに集中すべきだ。
一方で、他人の顔色を伺い始めると、人によく見られる手段として「自己犠牲」を使い始める。その場しのぎの手段として。
ただ、「自己犠牲」はもろ刃の剣だ。
この性質をよく理解しておかなくてはいけない。多用したツケが自分の身に跳ね返ってくることを肝に銘じておくことが必要だ。
最後に。
なにか始めるときや協力を求めるときは、まず「自己犠牲」を意識するようにしている。
初期の自己犠牲が、後々大きな反響を得られるとこれまでの経験から気づいたからだ。自己犠牲によって物事が動き始めると。
ただ、「自己犠牲」の多用には注意が必要。自分の身と心を削ることになるリスクが非常に大きい。
他者の力も借りながら「自己犠牲」をうまく使い、成果を最大限に展開していく方法をこれからも深く考えていきたい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。