怒られることは怖いと感じますか?
「怒り=恐怖」として捉えているか否かということです。
昔の私は、怒られることに怯えていました。
- 親に怒られないように良い子であろう
- 先生に怒られないようにテストでいい点数を取とう
- 監督に怒られないように野球の試合でエラーしないようにしよう
「怒り」という恐怖によって、私は完全に行動を支配されていました。「怒り=恐怖」だったんです。
実体験からもわかるように、怒りという恐怖が他者を支配する性質として働く事実が伺えます。
では、本当に「怒り」という恐怖が支配力につながるのでしょうか。
私の考えは、「完全な支配力にはつながらない」というもの。
いやいや、昔のあなたは実際に支配されていましたよね?という反論もあると思うので私の考えを書き記します。
「怒り」は恐怖?
そもそも「怒り」は恐怖なのでしょうか。
実生活を振り返ってみると、子どものしつけや部活動、会社に至るまで、怒りという感情は確かに使われています。
- 言うことを聞かない子供を矯正する
- 選手の士気を上げる
- 会社の売上を上げる
など、理由は様々ですが「怒り」を使うことで相手に恐怖を与えることで、相手が行動を始める起爆剤スイッチというコントロール権を得ているような感覚です。
子供時代を振り返ってみると、怒りに対する恐怖は自然と身についていて、怒りの矛先が向けられないよう行動していたような記憶があります。
このことからもわかるように、「怒り」は相手に恐怖を与えられる事実を持ち合わせています。
恐怖は行動を促す効果がある
それでは、怒りによって与えた恐怖が相手を支配できるのでしょうか。
先ほど述べたように、恐怖を与えることによって、相手の行動を促す効果はあるようです。
人は弱い生き物。時に「怒り」という恐怖を与えることで雰囲気を締めたり気合を入れ直したりすることも必要でしょう。
四六時中優しさを出すだけでは舐められるのも時間の問題。恐怖以上のカリスマ性があれば別でしょうが、統率を取るためにはある程度の厳しさもときに必要です。
つまり、適切に恐怖を活用することは、組織を乱さずまとめたり、個々人をある一定の目標に向けたりする効果が期待されます。
私利私欲のために「怒り」を乱用する者たち
ここまでの流れを簡潔におさらいすると、
- 怒りによって恐怖は与えられ
- 恐怖が行動を促す効力がある
ということをお話してきました。
ただ、この「怒り」の効力を誤った解釈で乱用する者がいます。「怒り」を私利私欲のために使い、支配してやろうという不届き者です。
このような人は、学校や職場など私達が生活するありとあらゆるところに存在します。子供ならまだしも、子供を教育する立場の大人ですら「怒り」を乱用する人は少なくありません。
怒りを乱用する人は、恐怖を与えることでその対象を支配しようとします。恐怖を与えさせすれば、自分の思い通りにいくと信じて疑わないのです。
「怒り」を私利私欲目的に使う理由
なぜ「怒り」を私利私欲目的に使う人が散見されるのか。その理由として挙げられるのが、
- 権力を誇示するため
- 周囲に存在を認識させるため
- 雑な扱いをされたことが許せないため
これらの怒りの源は、すべて自分が対象であって、自分のことしか考えていない強欲の極みです。
私利私欲に使う怒りには、すべて【自分】というキーワードが入ります。
- 【自分の】権力を誇示するため
- 周囲に【自分の】存在を認識させるため
- 【自分に対して】雑な扱いをされたことが許せないため
私利私欲の怒りには【自分】を全面に押し出す強いメッセージがあります。
私利私欲の「怒り」しか手段を持たない者の弱点
私利私欲の「怒り」しか手段を持たない者は大きな弱点を持っています。
それが、怒り以外で人を動かす力を持っていない、というもの。戦の時に抜く刀はいつも怒りという武器のみ。
話し合いで説得したり、議論をして理解してもらったりする辛抱強さがなく、極めて楽で感情的な「怒り」を使ってその場を丸め込もうとする。言葉悪く言うと、怒り一辺倒の無能者です。
恐怖だけ与えても完全支配はできない
とはいっても、怒りという恐怖にはある一定の行動を制御させる力があり、私利私欲の「怒り」を向けられるとその恐怖に息詰まる危険があります。私利私欲の怒りをぶつけてくる者に対しては断固とした態度で応じる必要がありますが、
- 部下を一方的に怒鳴り散らす上司
- 無理無謀な要求を通すために怒り散らす者
のように大声で怒りをぶつけてくる者を跳ね返すだけの胆力がすべての人に備わっているとは思いません。私も怒りをぶつけられればヒヨって屈することもあります。
一方的な恐怖による支配に味をしめている不届き者は、恐怖さえ与えれば簡単に自分の思い通りに支配できると考えているのでしょう。しかしそれは一部正解で一部間違っています。
いくら恐怖を与えても、他人を完全支配することはできないからです。
怒りに打ち勝つもの「頭脳」
人はみな「頭脳」を持ち合わせています。頭で考え、記憶し、創造する。生物の中でも唯一無二な能力こそが「頭脳」を使うことができることではないでしょうか。
そしてこの「頭脳」を上手に使うことで、怒りによって引き起こされる恐怖にも打ち勝つことができると信じています。
例えば、目の前に私利私欲の怒りを振りかざす者がいた場合、次のように置き換えてみましょう。
- 怒り一辺倒の無能な人だなぁ
- 余裕がない可愛そうな人だなぁ
- 虚勢を張ることでしか自己を表現できない人だなぁ
- 周囲に認めてくれる人がいない寂しい人だなぁ
と。頭脳を使い、捉え方を少し変えるだけで恐怖で支配しようとする者から逃げることが出来ます。
また、恐怖で支配された環境下にいて全く逃げられない状況であっても、人は頭脳を使うことで恐怖に屈しつつも僅かな可能性を見出すことができます。
これは、アウシュヴィッツ収容所で極限の恐怖による支配を受けながらも生還した心理学者の実話が記された「夜と霧」を読んだ際に感じたもの。本書の言葉を一部抜粋します。
来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれなければならないというむごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、わたしはトリックを弄した。突然、わたしは皓々(こうこう)と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される‥‥‥このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
夜と霧
さらには、恐怖と支配について、
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
夜と霧
とも記されています。
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。
夜と霧
つまり、死という極限の恐怖下においても人は頭脳を使って僅かな可能性を探り、恐怖を置き換えることができるということなのです。
最後に。恐怖のみで支配できるのであればこれほど簡単なことはないでしょう。もし自分の思い通りにしたいと考えれば、常に怒り狂って恐怖を与え続ければいいのですから。では、世界各国のトップが怒りという恐怖を使って民衆を支配しているでしょうか。そのような時代は過去にあったとしても長続きしないことは歴史を見れば明らかです。
人は怒りという恐怖を与えられても、頭脳によって恐怖を乗り越える力を持っています。そして、各個人の中に埋め込まれた経験という財産は他の誰しもが手を付けることができないものなのです。
このような考え方というか感覚が、怒られる環境に恐怖心を抱いている方の少しでも参考になれば嬉しく思います。
それでも辛いと感じているのであれば、話を聞いてもらうだけでも心の持ちようが変わるかもしれません。身近な人に相談できない方は、行政を活用してみてください。行政はそのためにあります。詳しくはこちら↓↓
最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。