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【武相荘(ぶあいそう)】白洲次郎の旧邸宅を訪問した。

2022年1月23日

【武相荘(ぶあいそう)】白洲次郎の旧邸宅を訪問した。

東京都町田市に、白洲次郎の旧邸宅「武相荘(ぶあいそう)」があります。

小田急線の鶴川駅から徒歩で15分ほど。

ちなみに、鶴川駅からバスに乗車し徒歩5分程のところで下車もでき、駐車場もあるので車でのアクセスも可能。詳細なアクセス情報はこちらからどうぞ。

白洲次郎の旧邸宅「武相荘(ぶあいそう)」を訪問した

よく晴れた秋晴れの日に「武相荘」を訪れました。

小田急線鶴川駅の北口改札を出て、鶴川街道を北上していくと「旧白洲邸 武相荘」という看板を見つかります。

看板のとおりに坂道を登っていくと、そこに武相荘があります。

入館料は1,100円。開館時間は10時~17時(入館は16時半まで)。

休館日は月曜のみで、月曜が祝日の場合は開館されるとのことです。

休館日を確認したい方はこちらのカレンダーからどうぞ。

武相荘の入口

武相荘の入口は2箇所あります。

鶴川駅から徒歩の方は右上の「鶴川街道側 武相荘入口」から、車でお越しの方は左下の「専用駐車場 武相荘入口」から散策路を通って入場できます。

館内への飲食物の持ち込みはできません。また、小学生以下の入館は出来ないため注意が必要です。

2箇所の入口はこんな感じ。

鶴川街道側 武相荘入口
専用駐車場 武相荘入口

白洲次郎の愛車「ペイジ」がお披露目

中に入っていくと左手に休憩スペース(邸内マップ「カフェ」の位置)があり、その奥には当時 17歳の白洲次郎が、父白洲文平から初めて買い与えられた車「ペイジ」の同型車が展示されていました。

ペイジを横目に早速門をくぐろうとしたら、木の臼のような新聞入れがありました。可愛い。素敵なセンス。

門をくぐってすぐ右手には、レストランとBar&galleryがあります。

Restaurant & Cafe 武相荘

レストランはこんな感じ。

昼と夜の2部構成です。

ランチ、カフェ(昼の部)

  • 営業時間 11:00 〜 16:00 (土日祝は16:30まで)
  • オーダーストップ ランチ15:00 カフェ平日15:30、土日祝16:00
  • 予約不可

ディナー(夜の部)

  • 営業時間 18:00 〜 21:00(開始時間の延長は18:30まで)
  • オーダーストップ ドリンク20:00
  • 完全予約制

詳細は公式サイトからご確認ください。

テラス席もあります。天気のいい日には外でお茶もいいですね。

Bar & gallery "Play Fast"

門とレストランの間にひっそりと佇む高床式のギャラリー。階段を登ると重厚な木材で作られたBARがありました。

こんなところで夜な夜なお酒をたしなめたらば、最高でしょうね。

1947年、白洲次郎が終戦連絡中央事務局次長を辞す際に、連合国軍最高司令官のマッカーサーへ送った椅子(レプリカ)も展示されていました。

武相荘ミュージアム

茅葺屋根の平屋。現在はミュージアムとなっており、白洲次郎と妻白洲正子が暮らしていた雰囲気や空気感を感じることができます。書斎や本棚があり、都心からひと里離れたこの武相荘でどのような想いを馳せていたのか、想像を膨らましながらミュージアム内をまわっていました。

玄関まわり。ミュージアムへ入る際は靴を脱ぎます。木の椅子と竹の靴べらがお洒落。

後ろを振り返ると、竹林が。小学生の頃、父と一緒に山に竹を取りに行き、お正月用の門松を作ったことを思い出しました。

竹林に囲まれた石畳の先には散策路が続いており、緑を感じながらぐるっとお散歩することもできます。

吉田茂の側近として活躍した白洲次郎の生い立ち

内閣総理大臣を努めた吉田茂の側近として活躍した白洲次郎。生い立ちを武相荘のサイトより一部抜粋します。

長身で端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし。 趣味は車と大工とゴルフ。

1902年(明治35年)兵庫県に次男として生まれ、1923年(大正12年)21歳でイギリスのケンブリッジ大学に入学。

1926年(大正15年)24歳で卒業し、大学院に進んでいたが、1928年(昭和3年)26歳の時、父文平の綿貿易商「白洲商店」が金融恐慌で倒産したため帰国。

1937年(昭和12年)35歳で日本食糧工業(後の日本水産株式会社)の取締役に就任。鯨油の輸出に携わり、毎年イギリスに赴く中で、英国大使であった吉田茂との親交を深めた。

1942年(昭和17年)40歳のとき、戦争による食糧危機を見越して東京郊外鶴川村に茅葺きの農家購入。翌年から鶴川村に移住し生活を開始。これが「武相荘」です。

1945年(昭和20年)43歳、終戦を迎えた年に吉田茂外相の要請で、終戦連絡中央事務局参与に就任。GHQ(連合国最高司令官総司令部)と連絡調整する日本側唯一の機関で、サンフランシスコ講和条約の発効までGHQとの折衝の矢面に立った。

1946年(昭和21年)44歳、終戦連絡中央事務局次長に就任し憲法案の逐条審議を行なった。第1次吉田茂内閣が成立すると、経済安定本部(経済企画庁の前身)次長を兼任することになった。

1947年(昭和22年)45歳、吉田内閣総辞職にともなって終戦連絡中央事務局次長を退任するが、1948年(昭和23年)第2次吉田内閣が成立すると、マッカーサーのお名指しで貿易庁(翌年、通商産業省に統合)長官に就任。

東北電力会長に、1952年(昭和27年)50歳で外務省顧問に就任した。

1959年(昭和34年)57歳の時、東北電力会長を退任。以後、荒川水力発電会長、大沢商会会長等を歴任、大洋漁業、日本テレビの社外役員、S・G・ウォーバーグ顧問等をつとめる。

1985年(昭和60年)83歳で死去。たった二行の遺言は「葬式無用 戒名不用」

2009年にはNHKドラマスペシャルで白洲次郎を描いたドラマが放送されています。

ひと里離れた田舎町で自給自足の生活

戦争が始まると「食べ物を確保しておくことが一番必要なこと」だと、食糧危機に直面することを予測して郊外の田んぼと畑のついた農家を探していたそうです。

そうして見つかったのが「武相荘」

綿貿易商を興して巨万の富を築いた父の元で育ち、イギリス留学や吉田茂の側近として活躍するなど華々しい生活を送ってきたはずの白洲次郎が、ひと里離れた田んぼと畑のある田舎町に目をつけ、自給自足の生活を始めたという行動には深い興味を持ちました。

いつの時代も、自給自足のという「自立」は大きな力に変わります。

千葉県匝瑳市(そうさし)では、お米や大豆を自分の田んぼや畑で作る取り組みを行っています。SOSA PROJECTについて書いたこちらの記事もどうぞ↓↓

白洲次郎の旧邸宅「武相荘」を訪れてみて、改めて自立して生きることの大切さを感じました。

家をつくって田植えや畑を手にかけ、収穫して自分で食べる。

いつの時代も、「自給自足」は私達の根底にある基礎なのかもしれません。

皆さんはどう考えますか?

最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。

  • この記事を書いた人
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みむら たけし

土木屋/国家総合職・国家一般職・都庁・県庁の4公務員試験に合格/野球10年/サッカー好き/イギリス・スペインでサッカー観戦(マンU・バルサ・レアル)/カリフォルニア州にホームステイ/全国400店舗達成/“Stay hungry, stay foolish”/2021年3月からブログ運用中!!

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