読書していますか?
- なんだかモヤモヤする
- 気持ちが乗らない
- 喝を入れてほしい
そんなときに読んでほしい、そんな本を今回はご紹介します。
今回ご紹介するのが、岡本太郎さんの『自分の中に毒を持て』です。
この『自分の中に毒を持て』の文章は、厳しい言葉がグサグサ自分の弱い部分に突き刺さってきます。
「わかっているけど、どうしても逃げてしまう」、そんな自分のもやもやした感情を払拭してくれる本。人は誰しも、弱い部分があります。そんなときに、心の支えとなるような栄養剤です。
完読して、印象に残った文章がたくさんありました。多くの人に知っていただきたい内容を一部抜粋したのでどうぞ。
『自分の中に毒を持て』が与えてくれたコトバ
『自分の中に毒を持て』が与えてくれたコトバを並べます。みなさんがどう感じるか、一緒に感じてみてください。
諦めるんではなく、気が弱いんだと思ってしまうんだ。そうすれば何かしら、自分なりに積極的になれるものが出てくるかもしれない
強がらず、自分の弱さを「弱さ」として認めることってなかなか難しい。。。
つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。
自分に価値を見い出したい、と心から思えば思うほど、制約に支配されて動けなくなる。駄目でも自由に生きたい、そう思う。
誰でもが好奇心を大いに発揮して、真剣に、無条件に、人生をひらいてほしい。
好奇心こそ、自分を動かす原動力。子供の頃のような、純粋さを死ぬまで忘れないようにしたい。
「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対にいわないこと。’’いずれ’’なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。
「いずれ」と先延ばしにして、明日死んだら後悔したくてもすることができない。すべては「いま」。いまを全力で楽しんでいきたい。
自分で駄目だろうと思うことをやってみること。それは、もちろん危険だ。失敗に賭けるんだ。でも、駄目だと思うことをやった方が、情熱がわいてくる。
失敗しそうなことは、つい避けてしまうもの。失敗してもいいと、自分を甘やかしていいから、果敢に挑戦していきたい。
悩むときはプライドの逆を考えるといい。ふだんは自分はバカなヤツだと思っているとしよう。それがプライドの逆目になるわけだから、そういうふうに自分を考えること自体、虚しさがある。だから、バカだ、いやしいと思うなら思ったで、むしろそう考えたほうが、自分自身に手ごたえを覚えて面白いじゃないかと思えばいいわけだ。
気持ちの持ちようで状況は変わる。気持ちの持ちようを複数持っている人は強い。引き出しを増やしていきたい。
弱い人間とか未熟な人間のほうが、はるかにふくれあがる可能性を持っている。熟したものは逆に無抵抗なものだ。
年をとっても「未熟」で有り続けたい。熟した瞬間に、魅力は無くなる。
何も芸術家や文学者だけが行きづまっているわけじゃない。世の中の誰もが行きづまっているのだ。人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。強烈にとじこもりがちな人ほど、逆にひろがるときがある。ぼくだってしょっちゅう行きづまっている。行きづまったほうが面白い。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行きづまらないでいたら、ちっとも面白くない。
行きづまることは、才能かもしれない。失敗することは、才能かもしれない。その才能が、向上心とモチベーションを保ち続けてくれる。この才能がほしい。
英雄とか巨きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。
外向性のみが主役ではない。外向性とともに、内向性があるからこそいい仕事ができる。根暗だからこそ、強いヒカリを放つんですね。
友達に愉快なヤツだと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気をつかって、サービスしてしまうんだろうけれど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場をよくしたい、自分を楽なポジションに置いておきたいからだということをもっとつきつめて考えてみた方がいい。
人を喜ばすことは、すなわち自分のためだという真実。自分を良いポジションに置こうとする思惑もわかる。
ぼくは若い頃から、「出る釘は打たれる」という諺に言いようのないドラマを感じていた。何かそこに素通りできない問題がある、という思い。確かに、出る釘なんて恰好よくない。しかし、運命として、何としても出ずにはいられないから頭をもちあげたという感じ。それに対してこの世界は冷たい金槌で、容赦なくピシャッと叩きのめすのだ。
世の中は、冷たい。目立つものを潰しにかかる。なんとも悲しい世の中。だから、あえて「出る釘」になって、打たれるのもいい人生経験になるかも。
ぼくはかつて、「出る釘になれ」と発言したことがある。誰でもが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代はひらかれない。ぼく自身は前に言ったように、それを貫いて生きてきた。たしかに辛い。が、その痛みこそが生きがいなのだ。この現代社会、システムに押さえこまれてしまった状況の中で、生きる人間の誇りをとりもどすには、打ちくだかれることを恐れず、ひたすら自分を純粋につき出すほかはないのである。
言葉で言うのは簡単だけど、簡単に「出る釘」になることは相当な勇気と体力がいる。穏便に過ごしたいと言うのがホンネ。「それでいいのか?」とたまに自問自答してみようと思う。
才能なんてないようがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない。才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間のほんとうの生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。
才能があっても、その才能を使うことができないと意味がない。才能の持ち腐れ。才能を持つものより、才能を発見して使いこなせるものの方が、自分らしく生きることに繋がるのではと思ってしまう。
人間だれでもが身体障害者なのだ。たとえ気どった恰好をしてみても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは、自分のゆがみに残酷な対決をしながら、また撫でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んでいくのだ。
恰好をつける人を見ると「ダサい」と思ってしまう。表面的な薄っぺらい恰好良さはいらない。それよりも、内側から出る圧倒的な自信を持ちたい。
人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。ところが、ほとんどの人間は、この世をどううまく渡っていくかという処世的なスジしか考えない。
つい処世術にばかり頼ってしまう自分がいる。世渡りをやってるほうが楽だから。世渡りも重要だけど、生きぬく道にも目を向けていきたい。
かつて若者にとって、社会はもっと厳然としていたし、人生はもっと神秘であり、不可解であった。危険とスリルに満ち、希望と不安の間に揺れ動いていた。若い人生は、あたかもジャングルを押し分けて進む危険のようなものだった。ところが、現代社会ではまったく違う。もはや至るところ、整然とルートがついているのだ。それも、たんたんとした舗装道路。そこには、ハイスピードの直通大型バスが定期的に走っている。車の前面には行き先が明示してあり、それに乗り込みさえすれば、黙っていても目的地に着くのである。
過去を振り返ると、私を穏やかなルートをたんたんと進んできただけの道のりだった。もちろん、道中ツライことは大いにある。ただ、乗り越えればその先に目的地があることがわかっていたからがんばれた。これでいいのか。ジャングルを押し分けて進む危険な経験も興味がある。
むしろ”成功は失敗のもと”と逆に言いたい。
最初に成功を手に入れると、才能があると勘違い、プロセスを見直さず、横柄になり、声高らかに過去の成功を見せびらかす。そんな大人にはなりたくない。
「近ごろの若いものはだらしがない。嘆かわしい限りだ」と書いてあったそうだ。笑えない。このように大昔から、若者はいつもそういう疑わしい目で見られてきたのだ。若者は何といっても純情である。ケガレない目で世界を発見し、己を主張したい。しかし、断固として主張するには、どんなに障害があることだろう。大人の社会は不純で複雑だ。タテマエと本音が交錯し、ねじれあい、奇怪でさえある。
いつからか、子供の頃の純情さはなくなり、姑息なやり方を覚え、自分の過去を自慢し、若いもののだらしなさばかりを指摘し始める。そんな大人にはなりたくない。
ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。
人生は苦悩だ。その苦悩こそが、生命であり、生きること。人生の苦悩と仲良くなれれば、もう怖いものなんてない。
対するものが素晴らしければ、せいいっぱい背のびしても間にあわない。その距離は絶望的だ。身体をズタズタに切って伸ばしたって届かない・・・・・・。しかし、そのアガキの中にこそ、今まで自分の知らなかった新しい自分が出現してくるのだ。
背のびは地獄への第一歩。大事なのは、自分らしく自分が楽なポジションをとること。伸ばしたっていいことない。むなしくなるばかりである。
この世界で必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。モンテスキューの唱えた古典的な司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的システムではなく、まったく新しい三つの原則のオートノミーを確立すべきだ。
日本での「芸術」は特に優先度が低く、政治・経済とバランスを取ることができるようになれば、日本人にも「遊び」が生まれるのではないかと。
外国でよく聞く話だが、日本人は働いてばかりいて気味がわるい。パーティーなどに招んでも、話題もないし、楽しくないという。商社などから派遣されている人は優秀なエリートなのだろうが、どうもシステムだけに忠実で、人間本来の魅力には欠けるようだ。
遊びがないよね。遊びが。難しいけど。システム化された社会にいると、無意識のうちに自分がコンピュータ人間になってることには気づかない。
明治百年以来、日本人はなりふり構わず、大変な背のびをしてきた。その成果で経済大国になったようだが。しかし国や組織ばかり太っても、一人一人の中身は逆に貧しくなってしまったのではないか。
集団の成長と、個人の成長は比例するものではない。集団の成長と、個人の成長の乖離は、いずれ無理が出てくる。
政治家よ、エコノミストよ、官僚よ、もっと人間になってほしい。そして芸術家に。
心に突き刺さるコトバ。もっと人間にならないといけないと痛感。芸術にも触れて、遊びのある人間に。
あらゆるものがシステム化された社会の中で、もしほんとうに無目的に生きられれば、それは素晴らしいことだ。
システム化された社会で、無目的に生きるという、超難題。むずかしい。どうすればいいか。自分なりの答えを、少し考えてみようと思う。
全人間として生きないで、職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう。
職業だけに縛られず、もっと幅広く。広い世界を見ていこう。これだけインターネットが普及した世界に感謝しながら。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるのもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。
瞬間に全力投球。いまを最大限謳歌する。そのためにも、心と体を健康に。
まとめ|自分の心に炎を燃やす
『自分の中に毒を持て』のページを開くと、こんなコトバが書かれています。
いのちを賭けて運命と対決するのだ。
そのとき、切実にぶつかるのは己自信だ。
己が最大の見方であり、また敵なのである。
この『自分の中に毒を持て』は、1993年に発行されました。その当時から、このような感性を持って、コトバにすることができた岡本太郎さんは、常に対決をしてきたのだと。苦しみの中、自分自身と戦ってきたことが、容易に想像できました。
現代を「自分らしく生きる」ために、やれることを泥臭く必死に没頭していきたい、そんなパワーをいただきました。
ぜひみなさんも、力をもらいたいときに読んでみてはいかがでしょうか?
→『自分の中に毒を持て』