誰かに監視されていると、その目を気にして自分を律しようとする。つまり、ちゃんと振る舞おうとする。
一方で、監視の目が解けると、緊張感が無くなり力を抜こうとする。つまり、ちゃんとやらないようになる。
多くの人は、「監視」によってその行動パターンを柔軟に変えながら生活しています。
最近で言えば、コロナ感染拡大によって日本でも普及した在宅勤務も「監視」によって行動パターンが変わる例でしょう。
在宅の普及によって、出社する機会が減少し家で仕事をする人も増えたのではないでしょうか。では、在宅勤務をする時と出社する時で力の入れ具合はまったく同じですか?
会社での監視の目から開放され、監視されない家での仕事。在宅勤務の経験がある人は、なにかしら心境の変化を感じているのではないでしょうか。
その他の例を挙げると、学生時代の部活動。
部活の練習で監督・コーチがいる時といない時、パフォーマンスの質に影響があった経験をしたことはありますか?手を抜きたいと思うような心境の変化がありましたか?
監督・コーチが来たら合図を送って、急に練習を始めるようなことはしていなかったですよね?笑
ただ現実として、「監視」は他人の心理面かつ行動面を揺れ動かします。
監視の目があると「ちゃんとする」けれども、監視の目が無くなると「ちゃんとやらない」、つまりサボるようになるのです。
この性質を持っていることに学生時代気づいた私は、少しばかり嫌な気持ちになったのを覚えています。ただ、その当時この本能はどうしようもできませんでした。
それから色々と試行錯誤して考えた末に導き出した答えがあります。
それが「監視されていれば、やらない」というもの。
言い換えると、「監視されていないと、やる」という考え方です。
そんな話を今回したいと思います。
「監視されていればやる」が嫌だった
監視の目があると「ちゃんとしないと!」と思い、監視の目が無くなると「やらなくていいや!」と手を抜く。昔の私の本音です。
ある時その光景をふと俯瞰して見て、「すげぇ気持ち悪ことしてる...」と自分の感覚が嫌になりました。
人から見られていたら綺麗を取り繕うけど、人から見られてないところではズボラな行動を取る。この感覚が、なんとも言えない不快感というか、気持ち悪さを感じさせたのです。
学生時代でいうと、学校ではイケメン・スマートタイプを装っているのに、家では何もやらない・できないぐうたら人間のような感じ。
これって、まったくスマートじゃないし、本性はぐうたら人間なのだから、装い続ける本人も苦しいものでしょう。
だったら尚更、ぐうたら人間で生きる方が自分らしく苦しくないし、ラクなはずです。
背伸びしなくていいじゃんと吹っ切れたというか、人目があるからって気合い入れてやる必要なんてないよね、と思うようになりました。
そもそも、「監視されているとちゃんとやる」って、誰のため?何のため?にやってるのかよくわからなくなる。
監視している人のためにやっているならまだしも、わざわざ顔色伺って自分の行動を制御する必要はないですよね。
【発想の転換】「監視されていればやらない」ようにしてみた
「監視されていればやる」
この感覚に嫌気がさしていた頃、少し考え方を変えてみようと、「監視されていればやらない」ようにしてみました。
これを言い換えると、「監視されていなければやる」ということです。
この考え方に変えてみて良かったことは、
- 周りの目が気にならなくなった
- 見られていないところで努力できるようになった
- 他者評価から自己評価基準に変わった
の3つです。
1)周りの目が気にならなくなった
「監視されていればやる」だったときは、とにかく周りの目が気になりました。常に監視されている感覚で、視界にぼんやりと周りの監視する鋭い目がいつも入り込んできます。
ただ、「監視されていればやらない」「監視されていなければやる」に変えてからは、監視されていても『やらなくていいやぁ』って感覚なので、周りの目が気にならなくなりました。
2)見られていないところで努力できるようになった
「監視されていればやる」だったときは、見られているときこそ頑張ってるアピールをしようと必死でした。周りの人が見てくれている時は全力、周りが見てない時はアピールしても無駄だから省エネモードに切り替えていました。
ただ、「監視されていればやらない」「監視されていなければやる」に変えてからは、人が見てない時こそ頑張ろう、と監視の有無に関わらず努力ができるようになりました。周りとの競争を制するには、周りがやらない時にやることが鉄則です。
3)他者評価から自己評価基準に変わった
「監視されていればやる」だったときは、明らかに他者評価基準に支配されて動いていました。他者がどう評価するかが気になって気になってしょうがなかったですね。
ただ、「監視されていればやらない」「監視されていなければやる」に変えてからは、自分ならどう評価するか、といった自己評価基準を考えるようになりました。自分はどうしたいか?自分ならどう判断するか?を自分なりに熟考する機会が増えました。「監視されていればやらない」も私自身が考えた評価基準のひとつです。
最後に。
人はどうしても周りの目が気になってしまい、周りの目の有無によって行動を変える生き物です。監視されていると緊張感が発生しますが、監視されていないと緊張の糸は緩むでしょう。
私は学生の頃に、人目を気にして他者基準の中で生きることの苦しさを知りました。もっと自己評価基準の中で、自分がやりたいことを伸び伸びとやっていいんじゃないかって思っていました。
「気にしなくていいよ」と言われても、周りの目が気にならなくなるまでには時間がかかります。
もし周りの目に苦しんでいる人がいれば、私のような「監視されていればやらない」「監視されていなければやる」って考え方もあるよと、ひとつの参考にいかがでしょうか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。
《注》ここで書かれている内容は、あくまで個人見解であり、東京都の見解ではありません